最初と最後の間で/泳いではぐれた風/時間の約束
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ブルース・フィンク
『ラカン派精神分析入門―理論と技法』
訳=中西之信、椿田貴史、舟木徹男、信友建志
誠信書房、2008年
永井荷風
『摘録 断腸亭日乗 下』岩波文庫、1987年
岩間暁子、大和礼子、田間泰子
『問いからはじめる家族社会学―多様化する家族の包摂に向けて』
有斐閣、2015年
木戸秋岳渡
『うつくしいこと』テキスト、2023年
ジーン・シャープ
『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』
瀧口範子訳、筑摩書房、2012年
与謝野晶子
『愛・理性及び勇気』講談社、1993
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光は風だという。
ひとは、どこへ行くのかわからないから、
互いに無言のまま、演劇は繰り返される、
この部屋の憲法第十四条は沈黙したまま、
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2024年01月11日戸塚 愛美
雑談会考:たまには人間になる
「Twitterにはフォントがないからな」とある知り合いが憂いていた。たしかにタイムラインに流れてくるメッセージは当たり前のように同じフォントで表示されていて、「新しい服を買ったこと」も「暇を伝えること」も「政権を批判すること」も、みんな同じ形をもたされている。主題はまったく異なるのに筆触や筆致がまったく同じ絵画を見ているようなものだろうか。そこにはその人らしさの入り込む余地はほとんど残されていない。このフォントの画一性。Twitterのやりづらさの原因はそのあたりにあるのかもしれない。
ZOOM雑談会は、Twitterに蔓延するこの窮屈さを少しだけ和らげるリラクゼーションの試みである。東京に緊急事態宣言の発令された5月にみんなが何を思っているのか、人の話が聴きたくて始めたオンライン会話である。実際にはTwitterで開始の数時間前に告知して、初対面の方も含めた数名の方とZOOMを使って、いろいろお話しする。内容は雑談とは謡いつつも、昨今の社会問題や人生相談について、短くても3時間、長い時は10時間以上に渡って、まじめな話をしていることが多い。
最初はなんとなく始めたのだけど、見知らぬ人々と計300時間近く雑談をしてくると、自分が何をしたいのかが分かるようになってきた。要するに、私はZOOM雑談会を使って、ありえたかもしれないTwitterを作ってみたかったのだ。雑談会ではフォントの代わりに「声」というもう一つの身体性の現れが、参加者のその人らしさを仮にでも伝えてくれるからである。今日のTwitterは「さえずり」と言いながら、声が届かない場所になってしまっていたのだ。
と思っていたところ、建てない建築家の坂口恭平が新刊『苦しいときは電話して』で同じことを書いていて共感した。彼がライフワークとする、いのちの電話ならぬ「いのっちの電話」で何を聞いているかといえば、死にたいと電話をしてくる相手の「声」だという。同じ「死にたい」でも声に寄って、その意味は大きく異なるからだ。声優ならまだしも、素人は自分の声を偽るのは難しい。それゆえに、その人間の死との近さは会話の内容よりもさきに、声という隠し切れない身体の震えによって分かるというわけだ。坂口の脳内には膨大な声のアーカイブがこだましている。人間のその人らしさを証言する身体の痕跡の集積したアーカイブが。
これは人間との会話を取り戻すという活動だと言い換えてもいいだろう。なぜなら、いまや、人間のコミュニケーション自体がbot化しているし、もっといえば、botよりもbotらしいツイートを人間がしている状況があるからだ。それに例えば、ここまでのこの文章を書いている、この私。著者である南島という人物がbotでないことを証明することは難しい。それでも、あなたは私を人間だと思って、この文章を読んでいる。しかし、本当に私は、そしてあなたは人間なのだろうか?こうした疑いは今日、まったくSFではなくなっている。それはAIに代表されるテクノロジーの発達と普及によるものだけではなく、すでに述べたように人間自体のbot化によって実感できることでもある。
では、人間とは何であろうか。ここではきっぱりと「矛盾」に満ちている者だと定義してみよう。Twitterでは見つかるや否や、断罪されてしまうそれは、唯一人間に最後に残された人間らしさの条件であろう。だから、人間かもしれないことを確かめるためにこの矛盾を受け入れるための場が必要になる。それが「雑談会」である。Twitterではかき消されてしまう、何かに賛成したけれど、反対したけれど、その「けれど」のあとにつづくその人なりの躊躇いを拾い上げ、共有してみる場。ちょっとした音声の遅れのあとにZOOMから聞こえてくる、その人の「声」はそうした躊躇いにその人らしい形を与えて、私に伝えてくれる。
声を聴くというのは、内容はあまりシリアスに聞きすぎないということでもある。つまり、話し手の側には前言撤回=「なんちゃって」が許される。不思議なことだけれども、こうしたコミュニケーションの方が、結局のところ、まじめ話をしやすくなったりする。Twitterでは人はまじめな構えでまじめな話をしなければならなくなっているが、そこで起きるのは、まじめな話ではなく、決まり切った意見の応酬か個人的なフラストレーションの発散のどちらかである。だから、ZOOM雑談会での発見は、人は雑談という構えを通してまじめな話ができる、というものであった。そうでなければ、人は本質的に他人とまじめな話はできないのではないか。
ありえたかもしれないTwitterとは、その人のさえずる声に共鳴することで、中身に関しては「なんちゃって」と話を翻すことができる会話の形式、すなわち雑談的空間である。その中で、はじめて人間は人間らしい矛盾を許容され、愉しくまじめな話ができる。そして人は人間らしさとともに、会話らしきものを取り戻せる。身体の痕跡としての声に導かれ、私たちはもう一度、その人らしい人間になることができるのだ。私たちが慣れ親しむTwitterという非人間的な世界のすぐ横で。
追記 : 本稿が執筆されたのは去年の10月頃ですが、それ以降、世界や僕個人の生活にも様々な出来事が起き、その影響でZOOM雑談会への考え方にも変化がありました。ですので、その変化については、いずれ書けたらと思っています。
2021年02月26日南島 興
WALLA Boardについて:追記
公開されることを、「求めているテキスト」や「求められているテキスト」があるのではないだろうか。と考えたことが「WALLA Board」というテキスト公開ページを作るきっかけだった。発表、発信、報告、伝達、報道、説明、補足、開示、便り、とか。つぶやき?とか。あと、そう、「求め(られ)ていないテキスト」もあるかもしれない。自分にヒントを与える文字や言葉、記録。誰かが誰かに宛てているものであったり、独り言や音のような、言葉の流れであったり。これもひとまとめにできないが、ある。 「テキスト」という文字を文字通り「文字」に私もできてないかもしれないが、そういう感じで個人と公を漂っている、表現としての(表現のための)テキストに「場所らしい何か」の支持体をひきたいと考えた。
本来、場所に依存しないであろう文字や言葉というものに「場所らしい何か」を感じることは、私たちを安心させるのではないか。安心の依代は人それぞれではあるけれど、表現としてのテキストは安心に似た筆者の切実さやリアリティの文責を持つと思っている。それに加担するかのように新しくテキスト達の為の場所らしいものを築くことが「WALLA Board」である。小平にあるWALLAも実際の「場所」であるし、ネット上に仮にも場所を作るとなると、何か物体としてその度々起立したかの様に字面を見せてくれる「Board(板、ボード)」というと名を与える事になった。
最後に、本ウェブサイトの作成にあたり快く引き受けて頂いた大橋鉄郎さん、「WALLA」に引き続きロゴをデザインして下さったデザイナーの浦川彰太さん、公開にあたり先んじてテキストを執筆下さった(ている)方々、いつも心強く背中を押してくれるWALLAのスタジオメンバーの皆、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
「WALLA Board」は筆者とテキストにとって快適な場として運営して参ります。更新は不定期ではありますが、時折訪問して下さると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
2021年02月26日大石 一貴
スクリーンの前
インターネットの存在は広島という地方都市で生活をしていると水よりもありがたみを感じることがある。自分の知識欲を満たすための助けとして、そしてアートの一端を知るにはとても良い道具で、contemporary art dailyで毎日更新される世界中の作品アーカイブを毎日のように眺めていた。各地で行われるプロジェクト、イベント、上映会、読書会、様々な催しを知ることは可能だ。物理的な距離感ゆえに参加すること、実際に目撃することが叶うことは少ないが、見/観る事だけは許されている。その時スクリーンは知らない物事を眺める優雅な窓というより、動物が檻の外に餌を置かれたような感覚だ。そこに立ち入ることが不可能だと自覚する瞬間がやってくる。
Instagramはそのシェア率からどんな媒体よりも人の目にイメージを写し込むことができる窓/檻だ。ギャラリーは展覧会の宣伝、アーティストは作品のアーカイブはもちろん制作以外の日常を曝け出している。その投稿にあらゆるアートウォッチャーが “いいね” する。日本では年上、他人には敬語、仲の良い友人にはタメ口を使うなど言い方を使い分けている人が多いが、著名人に送るリプライでタメ口を使ったりするし、SNS上にある投稿に即時的なリプライをするだけで著名なアーティストと仲良くなったかのような気さえすることもあると思う。Instagram上のきらびやかな広告物や、一般的なアカウントが投稿する日常の画像と比べ、アート作品の写真はそれが何であるか直ちに認識することが難しい。人々の憧れ、理想の生活、羨ましさを具現化したような写真を投稿し続けるアカウントもあるなかで、おそらく筆者はその画像の洪水の中から突出する違和感からそれが誰かの作品写真であると気づくのだが、自身が ”いいね” した画像の傾向から編集されオススメされる、お笑い芸人のギャグ動画とアート作品の画像が並列に並べられることによる違和感は未だ拭えない。拭えないまま次々と更新される。Instagramでは非日常と日常が、画像によって同時に存在し続けていることを視覚化し、コメント欄に気軽に作品の感想を絵文字だけで感想を伝えるフランクさによって距離が曖昧になっていく。その視覚上の曖昧な距離感はインスタレーション、彫刻、絵画と呼ばれるものと、キラキラした広告、ギャグだけでなく、ファッションスナップと社会的問題の間にも存在する。
2019年、筆者がInstagramでフォローしているファッションモデルが、アマゾンの熱帯雨林の焼失に関する写真を投稿していたのを偶然見かけた。2019年に起こった熱帯雨林の火災は今までよりも大規模だということで世界的な話題となった。調べてみると前年度と比べ80%も多く焼失している。(*1)面積は違えど、ここ10年近く毎年焼失しているのだが。巻き起こった煙は風に乗ってサンパウロ上空を覆い辺りは暗くなった。主たる原因はマクドナルドやサブウェイ、大手スーパーなど多国籍企業が持つ農場の開墾、焼畑によるものと言われている。例えばレオナルドディカプリオや、マドンナなど、世界のセレブたちは日本とは違い環境問題に積極的な態度をとっている。レオナルド・ディカプリオのInstagram は”自然”のモチーフばかりが投稿されている。一部の人々は#prayforamazonというハッシュタグと共にインターネット上で拾った写真をポストしている。その次の投稿には自撮りが投稿され、アマゾンに関する投稿はその一件しか見当たらなかった。もちろん投稿数、頻度でその人がどれだけ環境に配慮しているかなど測ってはいけない。そしてそれらのポストに対し、長文で哀しさをコメントする人もいれば、短い文章で ”It’s so sad…”と短くコメントする人もいる。そしてさらに😭😭😭、😗😙😚😍と絵文字でコメントする人もいる。ディカプリオの写真に寄せられたコメント、”😗😙😚😍” の記号は、生活と事件の距離が、個人と個人の距離が、ソファとアマゾンの距離がSNSにより曖昧になっていることを表しているように思えた。そのコメントをしたのはリビアの青年だった。リビアには熱帯雨林の火災とは異なる内戦問題があり、SNSが世界中に拡がった現代では目の前にある現実よりも画面の向こう岸にある現実にリアリティを持つことの方が容易なのかもしれない。そして、立ち入ることが不可能だと自覚する瞬間がやってくる頃、人々はより個であることを認識し周囲を見渡し始める。
2021年03月11日小松原 裕輔