最初と最後の間で/泳いではぐれた風/時間の約束
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ブルース・フィンク
『ラカン派精神分析入門―理論と技法』
訳=中西之信、椿田貴史、舟木徹男、信友建志
誠信書房、2008年
永井荷風
『摘録 断腸亭日乗 下』岩波文庫、1987年
岩間暁子、大和礼子、田間泰子
『問いからはじめる家族社会学―多様化する家族の包摂に向けて』
有斐閣、2015年
木戸秋岳渡
『うつくしいこと』テキスト、2023年
ジーン・シャープ
『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』
瀧口範子訳、筑摩書房、2012年
与謝野晶子
『愛・理性及び勇気』講談社、1993
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光は風だという。
ひとは、どこへ行くのかわからないから、
互いに無言のまま、演劇は繰り返される、
この部屋の憲法第十四条は沈黙したまま、
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2024年01月11日戸塚 愛美
物の怪
物の怪(もののけ):人にとりついて悩まし、病気にしたり死にいたらせたりするとされる死霊、生霊、妖怪の類。
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狐狸(こり)や妖怪の物語が消失して久しい。私は生まれてこの方、いわゆる「物の怪」と呼ばれる存在を目撃した経験がない。稀に幽霊が視えると主張し、自分の恐怖譚を語る者はいた。実感できない私がその者に同情することはなかったが、否定する気にもならなかった。なぜなら、語り部であるその者にこそ、怪しき何かが宿っているように思えたからである。
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彫刻:木、石、土、金属などで、物の像を彫り刻んで作ること。また、物の形などを掘り込むこと。また、その物。
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おそらく私が人生で初めて意識的に目にした立体造形は、自宅にある荒井良の張り子人形だ。幽霊や妖怪を表現した彼の張り子は、張り子には見えず、思わず人差し指でそっと触った。柔らかな衣服の部分は、予想に反してざらついていた。
張り子人形のような立体造形に微かな憧れを抱いた私が、次に意識的に鑑賞したのは、佐藤忠良の彫刻であった。美術の先生に連れられて訪れた展覧会で、私は呆然としていた。
張り子とブロンズ像。素材や表現は異なるが、根底に同じものを感じた。造形のルーツに関する話ではない。私の目には、どちらも「物の怪」に視えたのだ。ここで「物の怪」を解体する。「物」は幅広い。動植物も、建造物も、すべて「物」である。人は森羅万象に名前を与え「物」にしているのだ。
「怪」は、理解し難い「怪しい」ことを指すが、これを全く同じ意味を持つ「恠」に書きかえるとやや変わる。りっしんべんに在と書くこの字が表すのは、怪しきは「人の心に在る」ということである。
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荒井良の張り子人形にも、佐藤忠良の彫刻にも、その形(物)に至るまでの、物語(出来事)が存在する。その物語を鑑賞者が知りうることはない。鑑賞者は物語を想像するのみだ。その想像を誘発させるのは、作者の「怪/恠」である。鑑賞者は、理解し難い、しかし魅惑的な、作者の「怪しさ」に惹かれるからこそ、その作品を鑑賞する。
つまり、「物の怪」に憑かれているのだ。
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辞書では「物の怪」を、死霊や生霊、妖怪であると記している。これは、古代より残されている怪異史料の影響が強い。かつての人々は、「フシギなこと」が起こると、それが「物の怪」の仕業であると考えていた。台風や地震であっても、自然科学の知識がない時代においては、それが「物の怪」の仕業と認定されていた。奈良や平安の世を生きた人々は、神や怨霊は実在すると信じており、人の行いに対して天が人を諭す、天人相関説の思想を持っていた。そのため、古代においての「物の怪」は、辞書が記している通りの意味を持っていた。
しかし、近代の科学文明の発達によって、それまで語られてきた「物の怪」は消失した。百鬼夜行も、人を化かす狐も、現代では現れない。しかし、妖怪研究で知られる小松和彦は著書に、現代においても妖怪たちは生き続け、新たに生まれていると記している。かつて人々は、闇夜のような不明瞭な空間や、得体の知れない物事に「物の怪」を想像していた。科学技術の進歩で、街は灯され闇夜が減り、物事が分類され明文化された現代において、人は自分の外側のものに「物の怪」を想像することが困難になった。そのため、現代の人は自分の内側に「物の怪」を想像するようになっている。
アーティストは、自分の内側で想像されたものを冷静に見つめ、作品制作を行う。この行為は、自分の「物の怪」を外在化させていると言える。自分の内側で終わらせず、外側にある思い通りにはならない素材等を器用に操り、彼らは「物の怪」を具体化させているのだ。
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私は最近、怪異を扱った小説を出版した。ライトノベルと文芸の中間に位置する文庫レーベルのため、謎に対して明快な結論を下しつつ、白黒つけられない人間の複雑さを語ることを試みた。読者が求めるものになったかは定かでないが、現代の怪異を描くことはできたと思う。茂木健一郎は、脳は論理的に動いているわけではないので、現実と仮想は区別されるものではないと言う。この現実と仮想の間の部分を見つめることを、少しでも促そう。わからないことを拒絶しないで欲しい。そんな思いで執筆していた。
この文庫レーベルからの出版に拘ったのは、大衆娯楽を作りたかったからだった。彫刻家を志して美大時代を終え、社会人として過ごす中で、自分に何ができるのか暫く自問自答していた。その末に、ハイカルチャーである彫刻と、サブカルチャーであるライト文芸の両方に着手し行き来することで、相互作用をもたらせたらと考えるようになった。
私の「物の怪」に取り憑かれた人が、少しでも豊かな時間を過ごせることを願う。
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刊行小説
『怪異学専攻助手の日常 蓮城京太郎の幽世カルテ』 杜宮花歩(メディアワークス文庫)
引用・参考文献
『現代国語例解辞典』第四版 監修:林巨樹 松井栄一(小学館)
『怪異学の可能性』 東アジア恠異学会(角川書店)
『妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心』 小松和彦(講談社学術文庫)
『脳内異界美術誌』荒俣宏(角川書店)
2023年06月14日大江 花歩
舟と櫂
新緑の季節が過ぎ、湿った梅雨の匂いがする。霧のような雨の中で、雫が葉に留まろうとする。
WALLA Boardでは記事が時系列でなく乱数に従って表示されるらしく、空間が再構成されるたびに私たちは同じ文章でも新しい発見ができるのかもしれない。永久にそこに漂っているように見えるウェブ空間もまた、実は地層のように堆積して過去は見えなくなったりするもので、過去の記事やブログの持つ古物感、Backを何回も押すことで私たちがアクセスすることのできるそのページは時代の薄らとした空気感が積み重なり、見えない埃を纏っている。
ここではそれらが無重力空間を揺蕩うようにタイムラインに縛られずに目前に現れたり隠れたりすることが、煉瓦の隙間から芽吹く新芽のように健全な新陳代謝を感じさせる。
この文章が果たしてどの隙間に出るようになるのかは分からないけれど、いつの時代もまだ時候の挨拶に変わりのないことに少し安心する。
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oar pressという出版レーベルを数ヶ月前に始めた。
作家と一緒に本を作るレーベルで、oarはオールと読み、ボートの櫂(かい)を意味する。
元々は主たる舟である作家をサポートする、あくまで櫂のような存在になりたいという意味合いだったのが、舟を漕ぐのに必要な櫂はいつも2本で、互いに持っている櫂で二人三脚をするという意味にとってもらうことも多く有り難く思う。
詩人の茨木のり子が『櫂』を立ち上げたのは27歳の時で、大岡信や谷川俊太郎らも関わったこの同人誌は活動自体はそこまで長くは続かなかったものの、お互いを認め合いながら同時代の作家同士が発表できる場を形成し、その後にも影響を残している。
場という、人と人との間が持つ作用を、私もまた重要だと思う。
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なぜ今、本なのか?という問いがあれば、一番は記録性ということがわかりやすいかもしれない。
何ヶ月もかけて準備した展覧会も会期が終われば消えて無くなり、その展示にアクセスできるのはその会場を訪れた限られた数の鑑賞者だけ。どれだけ練られた展覧会や作家の仕事も、誰かが体系的に書き留めなければ歴史から抜け落ちてしまう。
電子的な記録の将来的な担保のされ方は不透明で更新が必須である一方で、紙の記録は古代から長く記録を残すために特化してきた息の長い安定した媒体として知られている。
10年後、100年後に作品を残していく、また風化しながらも1000年後に残る可能性を考えれば、留めるためのシェルターとして本という場も有用だ。
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展覧会とは何だろうと思う。今、デジタル空間が公共的な誰もが出入りすることのできるスペースとなり、例えばセス・ジーゲローブがゼロックス・ブックを制作したのとは異なる地平で、実空間に存在していることに依拠しない展覧会も増えている。
そこに発される作家の思考とアイデアとに魅了されながら、実在も曖昧になるなかでもそれを眼差すことができるとしても、全ての作品が電子上のバーチャルになるわけでは決してない。
本という場所は、バーチャルでありながら、物質性を持つ家である。展覧会も作品もそこに住うことができる。そして複製された家々は同質のまま持ち運ばれて、また誰かの家の本棚に仕舞われる。遠い場所まで届く時間と空間のカプセルは個人の生活に忍び込み、それに寄り添うように作品と向き合えるとしたら、その速度も深さも今の美術にとって必要ではないかとも思う。
本の空間とタイムラインを使った定型の中の遊びにも可能性があるだろうし、WALLA Boardがこのウェブ空間に乱数を持ち込むような視点で、遊び場のように本を作っていくことができれば、それは私の一つの喜びかもしれない。
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oarは、ウェブ上でレビュー連載も行っていて、ここでのレビューは批評というよりも、re-viewの通り丁寧に見直すことを主眼に、美術にまつわる書き手に様々な対象をレビューしたテキストを寄せてもらっている。オンラインの即時的に広範に伝達される性質にも頼りつつ、これらもいずれは紙の冊子になることも決まっている。
この連載企画(oar review)で、WALLAの共同運営のひとりである大石一貴さんによる「空白の味方」が今月より公開されている。隔月更新の予定で、ある地点とある地点の隙間を眼差した文章だ。
私がここで書いているのは、大石さんにその連載の話をしようとした時に大石さんからもWALLA Boardに何か書かないかと声をかけていただいたという不思議なシンクロがあったから。大石さんも出版物に強い関心があり、ローマ・パブリケーションズの話をしてくれた。
大石さんは文章を単体で書いて外で発表するのは初めてと言うものの、その視点の面白さは制作される彫刻作品ともリンクしていて、対象から発生した力(運動)が次第に視点を変えながら時間と空間を経て取り留めのないところで旋回するような、”空白”に目を向けた文章になっている。
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大石一貴「空白の味方」#1 https://oarpress.com/review/20220615/(2022年6月15日更新)
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また、oarの3冊目の本が今週出来上がるので紹介させてほしい。
『ドゥーリアの舟』という、私の友人でもある奥誠之の初めてのエッセイ作品集となる。
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奥誠之『ドゥーリアの舟』
2022年6月30日発行
寄稿執筆 大久保あり、西川日満里
デザイン 加納大輔
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東京の美術大学を卒業後、引込線などの現代美術の展覧会やイベントにも参加しつつ、彼はマルシェで絵を販売したり、デモに参加してプラカードを作ったり、読書会を開催したりしながら、絵画を基軸に生活と美術について独自の視点で活動を続けている。
先月には谷中で、アイリス・マリオン・ヤングの『House and Home : Feminist Variations on a Theme』(『家と家庭ーあるテーマについてのフェミニズムの様々なあり方』)を軸に、暮らしにおける芸術の居場所をテーマとしたグループ展を企画して、彼自身も久々に作品を展示していた。
近年は小さなパネルやカセットテープサイズの絵画など、形態としても生活に寄り添う作品を制作していて、今回の作品集ではその実寸に近い絵が言葉の間に現れる。
17篇のエッセイで綴られるのは、絵と自身の関わり、社会の中で移動していく絵画、生活と絵との交わりについて。
美術との関係に逡巡しながら、行く先々の人や本との出逢いから少しずつ変わっていく様子に、これから絵と関わりたいと思う人、制作に悩む人、自分の思う美術と社会とのずれを感じる人は、共感や希望を見出せるかもしれない。
タイトルにある「舟」は、文中にも引かれる石牟礼道子の詩に由来するもので、ここでは舟は人を指す。苦しみを越えて、舟が空や海を悠々とわたっていく様子に、作者は背中を押されて前に進んでいく。けれども本を通して読めば、彼は石牟礼道子の言葉だけでなく、過去から現在にかけて存在してきた様々な表現や存在に背中を押されていることがわかる。
水面に浮かぶ舟の一つ一つ、それらは別の道を示してくれる櫂なのかもしれない。
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2022.06.27
2022年07月03日見目 はる香
西嶋夏海 MILLORLOGUE
写真抜きで
長谷川新(インディペンデントキュレーター)

コミュ力高そうだなと思っていた人が、実は自分は人見知りなんだと言っていて、驚いたり安心感を覚えたことはないだろうか。あなたもそうだったのか。あなたが人見知りなら自分はどうなるんだ。
人と目を見て話ができない。相手の顔を見ていると思わせて、実は「片目」だけを見ていたり、「鼻先」を見ていたりする人もいるだろう(目を見て話せないなら相手の鼻を見ろ、は僕がかつて実際に受けたアドバイスである)。緊張ともまた違う。目を見て話せない。あと口を見られるのもすごく嫌だ。適当に検索をかけると、「隠し事をしている」とか「劣等感」だとかそれっぽい「深層心理」が出てくるけれど、そういうものでもないと思う。あれは一体何なのだろう。
それでなくても、何かを思い出しながら話すときは相手の顔を凝視しづらい。体を使って、勢いのようなものをつけて、相手の話を聞きながら思い出そうとする。両手が忙しなく動き、体が丸まり、膝が揺れる。首が傾き、眼球の裏側に変な力が入る。その間自分が何をしているのか振り返ってみたが、ほんの少し丸みを帯びた平野のような場所の地表から浮いたところをすごい速度で奥に向かって移動していてーー水平方向にグッと背を伸ばすみたいな感じでーーたどり着いた地点での記憶の膨らみのようなものに重心を預ける感覚だった。
大学生のとき、たまたまお茶をした院生の人が「自分は、数学者が幾何学の説明をしているときの手の動きを研究している」と言ってきて、なんて面白い研究なんだと心を躍らせたことがある。その人の顔は思い出せない。多分目を見て話せてなかったのだろう。
それで西嶋夏海のMILLORLOGUEの話になるのだが、どんな風だったのかを書くと、しつらえは「告白」の場のようだった。もとはコインランドリーだったと言われればそんな気もするアートスペースの小ぶりの空間は奥が一段上がって座敷になっている。靴を脱いで上がると座布団と小さなテーブルがあり、少し先に西嶋(らしき人物)がこちらを向いて座っていて、予約時間の範囲内で話をする。最大1時間。必ずしも一方的に話すというわけではなく、飲み物が差し出され、西嶋が質問をしたり、自分の話をすることもある。しかしどこか通常の対話というよりは、「告白」という感じがする。
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取調室、占いの部屋、病院の診察室....。こう書くと物々しいが、気心知れた仲ではない人と閉鎖空間でふたりきりになるということは自動的にそういう空間の形式になる。さらに、西嶋と参加者の間にはマジックミラーの幕が吊り下げられていて、相手の姿が見えない(足元だけは見える)。その意味ではキリスト教徒が罪を「告白」する、教会の告解室に近いかもしれない(【図1】)。

【図1】ジュゼッペ・モルテーニ 「告白」(1838)The Confession - Giuseppe Molteni, 1838
どうして不穏な方向に話を持っていくのかというと、思想家のミシェル・フーコーが分析したように、「告白」という形式は、告白をした人の心に「管理の内面化」をもたらすからだ。命令するのではなく、罰を与えるのでもなく、ただ相手に「自分について話させる」ことが、その人を操る上でもっとも威力があることをフーコーは見抜いていた。その人の行動を任意の方向へと変化させるには、その人に「告白」させることだ。
フーコーが1981年に行った講義を聴いてみよう。
厳密な意味での告白は権力関係の内部にしかありません。告白をきっかけに、権力関係が告白する者に行使される。〔...〕かんたんにまとめましょう。告白とは言語行為です。それによって主体は、自分がなにものであるかを主張し、この真理に自らを結びつけ、他人に従属する関係に身を置き、それと同時に自分自身への関係を変化させるのです。[1]
「権力」という言葉が出てきて大袈裟に感じるかも知れないがここでの「権力」は「振る舞いに影響を与える力」くらいに受けとっておこう。フーコーは、その定義からして、自分の行動を縛らない「告白」は存在しない、と言っている。
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MIRRORLOGUEでは、西嶋と参加者の間にはマジックミラーのフィルムの幕がはられていた。それは先ほど書いたとおりなのだが、もうひとつ言っておかねばならないのがセンサーライトだ。身体が一定以上動くと反応する照明が備え付けられていて、対話が始まってしばらくすると照明は落ちるのだが、少し動くと明るくなり、不意に会話は遮られる。ふたりの間で揃いつつあったリズムが断ち切られ、照れ臭さの混じった空気が滞留する。
マジックミラーは別名ハーフミラーと言って、光を反射させるだけではなく、透過もさせる鏡のことだ。窓ガラスを考えるとわかりやすいが、環境によっては向こう側の様子が見えず、逆に自分の姿が反射して映り込む。透過する光よりも反射する光の方が多いからだ。マジックミラーには「裏表」や「鏡面 / ガラス面」といった定位置はない。周囲の環境が明るければ鏡に近づき、暗ければガラスに近づく、そのようなシート。照明が落ちている間、相手の輪郭がなんとなく見えるのだが、明るくなると自分が映る。でもこれは、「告白」をさせようという空間にしてはーーあるいは安心して話をしようという構えとしてはーーとても奇妙で、水を差す仕組みじゃないだろうか。
おそらく西嶋はここで、「告白」による管理の内面化でも、自己変容でもなく、あるいはまた「対話」における親密さの獲得でも、相手への同一化でもない在り方を一時的に仮構しようとしている。別の言い方をすれば、おさまりの良い「自分」や「関係性」ではなく、在り方の流動性にフォーカスを当てようとしている。もっと言うと、相手の話を聞きたいという直接的な動機と同じくらい、マジックミラーとセンサーライトの効果に現実を見出している。
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何かを話す上で、別の何かを見ながら、それを元に話すという方法がある。例えば毛先が束になったり服の布がほつれたぬいぐるみを見ながら、そのぬいぐるみを咥えて眠っていた頃の話をすると言ったような。あるいは、写真を見ながら、その写真が切り取り損ねた周囲も含めて言葉にしていくと言ったような。
写真はこういうときに重要な役目を果たす。最近読んだ小説でも、ナイジェリア出身の作家であるアクワエケ・エメズィが「写真」を効果的な語りの導入に用いていた(『ヴィヴェク・オジの死』[2])。冒頭、古い写真の山があって、その一枚一枚にカメラ(語り手)が寄るかのように物語が紡がれ始める。読者は写真の描写を読みながら、それが次第に映像へとスライドしていくのを体感する。そしてまた次の写真へ。Picture、Picture、Picture。
写真は語りのきっかけであり、なんとか話し続けるためのエネルギー源であり、不自然で唐突なトピックの変更を可能にする手立てである。いくらでも長く語っていられる写真もあれば、すぐ終わる写真もある。『ヴィヴェク・オジの死』はその後、死んだヴィヴェク自身も含むさまざまな語り手が入れ替わり立ち替わり登場していく形式に移っていき、写真は重要な位置にありつつも、それ自体が世界であることをやめる。
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MIRRORLOGUEには写真はない。ここで体感するのは、もっとすれっからしの何かである。参加者は西嶋から手渡されるいくつかの会話のトピックの提案や、自分で考えついたことを語っていく。ヘロヘロでつるっとした金属色のテクスチャに歪んだ周囲や自分が映り込んでいる。ここでは、マジックミラーのヘロヘロさの方が、とってつけた親密さよりもリアリティを獲得する。便器に腰掛けてスマートフォンをいじっていると不意に暗くなって慌てて身体を動かすあの哀しい挙動こそがリアリティなのだ。
盛り上がってきた会話は中断するし、この人とならうまくやれそうかもという関係性も変わりうるし、自分がどういうことなのかもよくわからないし、人とどう付き合っていっていいか全然わからない。そういう曖昧さだけが確からしい世界で、お茶を飲み、写真抜きで、思い出したり、相手を知ろうとしたりする場所。MIRRORLOGUEはそんな空間だった。
西嶋はこっちの「告白」を手元の紙にメモしていくが、そのメモは誰かに読まれることはない。メモはこれまでの人たちの分も全部層状に糊付けされていて、重ねられたメモの一番上に、自分が話したことがぴたりと貼り合わされる。だから西嶋自身もそのメモを読み返すことはできない。残るのは、曖昧な記憶と、甲殻類が脱皮したあとのようなメモの塊である。糊が乾いて反り返った分厚い紙の束は、いつまでも見ることができた。

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[1] ミシェル・フーコー『悪をなし真実を言う ルーヴァン講義1981』ファビエンヌ・ブリヨン&ベルナール・E・アルクール編、市田良彦監訳、上尾真道・信友建志・箱田徹訳、河出書房新社、2015年、pp.28-30
[2] Akwaeke Emezi, The Death of Vivek Oji, Riverhead books, 2020
なお、エメズィ自身はノンバイナリーであることを公表しており、作中においてもヴィヴェクがセクシュアルマイノリティであることとそのことがヴィヴェクの死に関係があるらしいことが次第に示唆されていくが、エメズィは(ヴィヴェクも)軽はずみに「性的自認の物語」にカテゴライズされることを強く拒否する。あるマイノリティの死ではなく、あくまでも、ヴィヴェク・オジその人の死である。無論、その死はたんなる「御涙頂戴」の悲劇ではない。
2023年04月16日長谷川 新