最初と最後の間で/泳いではぐれた風/時間の約束
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ブルース・フィンク
『ラカン派精神分析入門―理論と技法』
訳=中西之信、椿田貴史、舟木徹男、信友建志
誠信書房、2008年
永井荷風
『摘録 断腸亭日乗 下』岩波文庫、1987年
岩間暁子、大和礼子、田間泰子
『問いからはじめる家族社会学―多様化する家族の包摂に向けて』
有斐閣、2015年
木戸秋岳渡
『うつくしいこと』テキスト、2023年
ジーン・シャープ
『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』
瀧口範子訳、筑摩書房、2012年
与謝野晶子
『愛・理性及び勇気』講談社、1993
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光は風だという。
ひとは、どこへ行くのかわからないから、
互いに無言のまま、演劇は繰り返される、
この部屋の憲法第十四条は沈黙したまま、
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2024年01月11日戸塚 愛美
17月3日
17月3日
昨日までずっと雨だった。今日は久しぶりに晴れたので、朝から何度も洗濯機を回した。でもうちのベランダは狭いので、干せなかった分はコインランドリーで回した。乾燥を待っている間に、夢を見た。私は森の中で誰かに追いかけられていた。夢の中ではいつも走ることができないので、私は両手を地面について、四つん這いになって逃げ回った。しかし相手はいとも簡単に、私の身体をひょいと持ち上げた。その瞬間、目が覚めた。持ち上げられた時の縄で縛られたような胸の苦しさと、ぬちゃとした冷たい泥の感触が手のひらに残っている。地面が濡れていたので、きっと夢の中でも昨日、雨が降ったのだろう。洗濯機を開けると、むわっとしたあたたかい空気が顔の前に広がった。私は出来上がったほかほかの洗濯物を、泥まみれの両手いっぱいに持ち上げ、優しく抱きしめた。
17月11日
今日、台所で食器を洗っていたら、天井からコツ、コツ、コツと物音が聞こえた。ピンポン玉を壁打ちならぬ、床打ちでもしているような、きれいな高音。上階に住んでいる人とは出会ったことがない。なんの音だろう、と思ったけれど不思議と嫌な気持ちにはならなかった。だってあまりにもリズム良くそれが鳴るので。とんでもなく卓球が上手な人なのかもしれない、上階の住人は。面倒くさい皿洗いも「コツコツ」のリズムに合わせて鼻歌を歌っていたら、あっという間に終わってしまった。ちょっと助かった。
17月17日
子どもの頃
雨の公園でひとり 遊び狂っていたら
お母さんにとびきり怒られたっけ
でも とっても楽しかったなあ
とっても楽しかったなあ
だって 天気が変わるだけで 特別
つまり 気分が変わるだけで 特別
いまも 猫とすれ違うだけで 特別
右手が寒さで凍えていたら
左手がぎゅっと 右手を抱きしめた
右手はかじかんでいたから
よく分からなかったらしい
でも 微かな心臓の震えだけは
伝わってきたんだって!
いまも 温かくなるまでずっと 握手
つまり ごはんも食べないまま 握手
だって 箸を持つこともできず 握手
17月19日
コツ、コツ、コツ、と上階から聞こえるようになってから、何日か過ぎた。聞こえる頻度や時間帯はさまざまで、規則性はない。リズムもアップテンポな時もあれば、スローな時もある。せっかくなので皿洗いのタイミングを合わせるようにしたら、鼻歌のレパートリーも自然と増えていった。しかし、食後の時間に合う日は助かるのだが、夜遅くなっても聞こえてこない日は、しばらく台所の前で待っていなければならなかった。諦めて布団に入った途端に聞こえてきたり、深夜の2時に始まった時は、さすがに困った。睡眠や生活リズムを乱されるのはちょっと困るので、そろそろ上に苦情を言いに行こうかと考えた。
17月23日
苦情を言いに行こうと考えてから、何日か過ぎた。近隣の住人に苦情を言いに行くなんて初めてだし、私にとってはとても勇気のいる行動だ。上階に住んでいる人とは面識もないし、引っ越してきた時に挨拶もしなかったので、やっぱり直接言いに行くのは躊躇われる。それならば、手紙で伝えようと思い立ち、机からレターセットを引っ張り出し、一文のみ、「ピンポン玉をコツコツ言わすのはやめてください。」と書き、封を閉じた。
17月29日
手紙をしたためてから、何日か過ぎた。手紙という手段を使ったところで苦情は苦情だ。そもそも本当にピンポン玉の音なのかも分からないし。今日、郵便受けまでは行ってみたが、やっぱり出すことができなかった。私にとってはとても勇気のいる行動なのだ。いやでも、もうそれならばと、私は100円ショップまでひとっ走り、ピンポン玉を買ってきた。帰ってくると天井からはコツ、コツ、コツ、と、いつものリズムが鳴っていた。
17月31日
今日の「コツコツ」は比較的テンポが良かった。私はその「コツ」と「コツ」の間をめがけて、天井に向かってピンポン玉を投げようとした。上階からのリズムを身体に刻みながら、手汗でピンポン玉が滑ってしまわないうちに上へと放った。
「コツ」「コツン」「コツ」
ピタリと上階からの音が止まった。聞かれた、届いた、と思った。手汗をズボンの脇で拭く。
「コツ」。
あ、返ってきた。それから、
「コツ、コツ」。
少し間をおいて、今度は2回、音が鳴った、ゆったりしたリズムで。なので私も2回、そのリズムに合わせてピンポン玉を投げ返した。
「…」。
少しの沈黙が流れた。
今度は私から、「コツ」と一度だけ投げた。すると、
「コ ツ」。
返ってきたコツは、先ほどのより優しいコツだった。私は、「コ ツ」と床に投げ落とされた後、吸い込まれるように住人の手の中に戻っていくピンポン玉と、それを包み込む手のひらのあたたかさを想像していた。包み込んだその手は、右手だろうか、左手だろうか。ピンポン玉は手汗でふやけてしまってはいないだろうか。
こうして、上階の住人とのやりとりが終わった。あの音はやっぱりピンポン玉の音だったのだろう、多分。でもまだ手紙を出せていないので、きっと明日は、夢の中で上階のチャイムを押そうと決め、私は就寝した。
2022年02月01日鶴田 理紗
スクリーンの前
インターネットの存在は広島という地方都市で生活をしていると水よりもありがたみを感じることがある。自分の知識欲を満たすための助けとして、そしてアートの一端を知るにはとても良い道具で、contemporary art dailyで毎日更新される世界中の作品アーカイブを毎日のように眺めていた。各地で行われるプロジェクト、イベント、上映会、読書会、様々な催しを知ることは可能だ。物理的な距離感ゆえに参加すること、実際に目撃することが叶うことは少ないが、見/観る事だけは許されている。その時スクリーンは知らない物事を眺める優雅な窓というより、動物が檻の外に餌を置かれたような感覚だ。そこに立ち入ることが不可能だと自覚する瞬間がやってくる。
Instagramはそのシェア率からどんな媒体よりも人の目にイメージを写し込むことができる窓/檻だ。ギャラリーは展覧会の宣伝、アーティストは作品のアーカイブはもちろん制作以外の日常を曝け出している。その投稿にあらゆるアートウォッチャーが “いいね” する。日本では年上、他人には敬語、仲の良い友人にはタメ口を使うなど言い方を使い分けている人が多いが、著名人に送るリプライでタメ口を使ったりするし、SNS上にある投稿に即時的なリプライをするだけで著名なアーティストと仲良くなったかのような気さえすることもあると思う。Instagram上のきらびやかな広告物や、一般的なアカウントが投稿する日常の画像と比べ、アート作品の写真はそれが何であるか直ちに認識することが難しい。人々の憧れ、理想の生活、羨ましさを具現化したような写真を投稿し続けるアカウントもあるなかで、おそらく筆者はその画像の洪水の中から突出する違和感からそれが誰かの作品写真であると気づくのだが、自身が ”いいね” した画像の傾向から編集されオススメされる、お笑い芸人のギャグ動画とアート作品の画像が並列に並べられることによる違和感は未だ拭えない。拭えないまま次々と更新される。Instagramでは非日常と日常が、画像によって同時に存在し続けていることを視覚化し、コメント欄に気軽に作品の感想を絵文字だけで感想を伝えるフランクさによって距離が曖昧になっていく。その視覚上の曖昧な距離感はインスタレーション、彫刻、絵画と呼ばれるものと、キラキラした広告、ギャグだけでなく、ファッションスナップと社会的問題の間にも存在する。
2019年、筆者がInstagramでフォローしているファッションモデルが、アマゾンの熱帯雨林の焼失に関する写真を投稿していたのを偶然見かけた。2019年に起こった熱帯雨林の火災は今までよりも大規模だということで世界的な話題となった。調べてみると前年度と比べ80%も多く焼失している。(*1)面積は違えど、ここ10年近く毎年焼失しているのだが。巻き起こった煙は風に乗ってサンパウロ上空を覆い辺りは暗くなった。主たる原因はマクドナルドやサブウェイ、大手スーパーなど多国籍企業が持つ農場の開墾、焼畑によるものと言われている。例えばレオナルドディカプリオや、マドンナなど、世界のセレブたちは日本とは違い環境問題に積極的な態度をとっている。レオナルド・ディカプリオのInstagram は”自然”のモチーフばかりが投稿されている。一部の人々は#prayforamazonというハッシュタグと共にインターネット上で拾った写真をポストしている。その次の投稿には自撮りが投稿され、アマゾンに関する投稿はその一件しか見当たらなかった。もちろん投稿数、頻度でその人がどれだけ環境に配慮しているかなど測ってはいけない。そしてそれらのポストに対し、長文で哀しさをコメントする人もいれば、短い文章で ”It’s so sad…”と短くコメントする人もいる。そしてさらに😭😭😭、😗😙😚😍と絵文字でコメントする人もいる。ディカプリオの写真に寄せられたコメント、”😗😙😚😍” の記号は、生活と事件の距離が、個人と個人の距離が、ソファとアマゾンの距離がSNSにより曖昧になっていることを表しているように思えた。そのコメントをしたのはリビアの青年だった。リビアには熱帯雨林の火災とは異なる内戦問題があり、SNSが世界中に拡がった現代では目の前にある現実よりも画面の向こう岸にある現実にリアリティを持つことの方が容易なのかもしれない。そして、立ち入ることが不可能だと自覚する瞬間がやってくる頃、人々はより個であることを認識し周囲を見渡し始める。
2021年03月11日小松原 裕輔
目玉とピンポン玉、そしてぽんぽこ太鼓 私は少し静かにしてるね『17月3日』を観て
17年ぶりに再会した。
ユニット・私は少し静かにしてるねの鶴田理紗とは、小学校の卒業式以来である。
この17年、特に連絡を取るようなこともなく、彼女が何をしていたかは全く知らなかった。彼女を思い出すことになったのはWALLAの吉野俊太郎くんのSNSで鶴田理紗という俳優が出演する舞台の情報を見た時。
その時は本人か確証はなかったのだけど、その俳優が私の個展の次にWALLAで展示を行うと言うことだからこれは何かのご縁だなと思った。
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展覧会の前半は45分間定員1名で予約する回が設けられていたので、私は初日の最終時間帯を予約した。定員1名で鑑賞できるようにしているのは、主催者が経験した鑑賞に対する問題点の一つの解決策としての試みのようだ。事前に公開されていたステートメントには美術館やギャラリーでの鑑賞体験の難しさについて触れていた。あらかじめ客席が用意されている劇場や映画館とは違い、自分のペースで作品を観る行為は監視員など周囲の視線を気にし、集中するのが難しい。他者の視線を体で受け、自身でも体の扱いを意識しながら視線を作品に投げかける。美術館やギャラリーに作品を観に行った経験のある人は、その感覚を一度は感じたことがあるんじゃないだろうか。次の作品を観ようと頭を動かす瞬間。なんとなくギクシャクした足の運び方とか、体が妙に硬くなる、居心地の悪いあの感じ。
一見、謎解きのヒントがばらまかれたような部屋だ。しかし段々と役者のいない舞台を場に観るようになる。観客の滞在時間の経過に合わせ、展示室内に手紙(日記)が投函される。投函されるたびに物語を想像し、自分がいるこの部屋が一体何かを考え出すと、自分の存在が観客としてあるということを忘れてしまいそうだ。観客としての私の体は透明になり、振る舞いは全て物語の中の人物のように見えてくる。
そこが舞台上だと認識しはじめると、主観は物語に飲み込まれていった。
劇場や映画館の座席で鑑賞する時、私はいつも目だけの存在になっているように感じる。照明が落とされることが多いのも関係するかもしれないが、自分の体に対する意識は消え、目で観る行為に私の全てが支配される。
この部屋に入ると、これまでの目と展覧会(美術館やギャラリーで行われるような)の関係が、途中からぐにゃりと目と劇場/舞台の関係に変容した。ちょうどそのぐにゃりが抽出したところで45分間が終了する。ただしそのぐにゃりは優しいゆるやかな変化などではなく、私で在る体と私でない体がついたり消えたりと、まるで切れかけの電気のようにぱちぱちと切り替わる。そうして終了間際には私の体は目だけが取り残されていた。
そうさせた一因は、会場に散りばめられた小道具の秀逸なしつらえから来るのだろうか。来場者としての私への指示か、この世界観に入り込んだ上での振る舞いかを察知させてくれる。例えば、一般的な舞台上の小道具として見せるために作られたプレゼントの包装を解いたとしても包装紙が空箱を包んでいるだけで、ハリボテの内側にはプレゼント本体は入っていない。舞台を見る観客の目は、違和感なくハリボテを本物として観ようとする。『17月3日』の室内は、ハリボテの装置と同一空間上に実際に観客が使用できるチェキ(インスタントカメラ)が用意されていたり、外を通る車両の光が窓に大きく映ったりと、現実世界と作り物が混在している。
杉浦修治と鶴田理紗の映像作品は再生され続けているのではなく、時折思い出したように流れたかと思えば、次の再生までの沈黙が長い。作られた効果音なのか、隣家から漏れた音か、生活音がかすかに聞こえる。謎かけのような部屋と映像のシーンが所々リンクし、わたしは鑑賞者としての体をつけたり消したりする。会場の小道具たちが示すト書きを頼りに音や映像に対してどう反応するか、自分自身に問いながら。私の所在がたくさんのところに飛んでは消え、その振る舞いの是非も主観の置き所により変わる。
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17年前、一緒に側転の練習をした。
お祭りで披露する「ぽんぽこ太鼓」で、皆が和太鼓でリズムを作る中大きな旗を振って側転を披露する役回り。
二人とも側転ができないくせに立候補して、たくさん練習した。
あの頃の、観客の前でパフォーマンスを披露し、「見られる」経験がその後、俳優・鶴田理紗への道を作ったんじゃないかと思ってる。
12歳の小学校の卒業から約17年。
本展タイトルの『17月3日』の17という数字は私にとって彼女との再会を意味するかのように受け取りたくなってしまう。
「こう思いたい」という欲望は日常生活の振る舞いをも演劇的に見せる。
2022年02月20日木村 桃子