• 最初と最後の間で/泳いではぐれた風/時間の約束

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    ブルース・フィンク
    『ラカン派精神分析入門―理論と技法』
    訳=中西之信、椿田貴史、舟木徹男、信友建志
    誠信書房、2008年

    永井荷風
    『摘録 断腸亭日乗 下』岩波文庫、1987年

    岩間暁子、大和礼子、田間泰子
    『問いからはじめる家族社会学―多様化する家族の包摂に向けて』
    有斐閣、2015年

    木戸秋岳渡
    『うつくしいこと』テキスト、2023年

    ジーン・シャープ
    『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』
    瀧口範子訳、筑摩書房、2012年

    与謝野晶子
    『愛・理性及び勇気』講談社、1993

    光は風だという。
    ひとは、どこへ行くのかわからないから、
    互いに無言のまま、演劇は繰り返される、
    この部屋の憲法第十四条は沈黙したまま、
                      、
                      、
                      、

    解説「テキストのテキスト」
    (PDF:401KB)ㅤ

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    2024年01月11日戸塚 愛美

  • 目玉とピンポン玉、そしてぽんぽこ太鼓 私は少し静かにしてるね『17月3日』を観て

    17年ぶりに再会した。
    ユニット・私は少し静かにしてるねの鶴田理紗とは、小学校の卒業式以来である。

    この17年、特に連絡を取るようなこともなく、彼女が何をしていたかは全く知らなかった。彼女を思い出すことになったのはWALLAの吉野俊太郎くんのSNSで鶴田理紗という俳優が出演する舞台の情報を見た時。
    その時は本人か確証はなかったのだけど、その俳優が私の個展の次にWALLAで展示を行うと言うことだからこれは何かのご縁だなと思った。
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    展覧会の前半は45分間定員1名で予約する回が設けられていたので、私は初日の最終時間帯を予約した。定員1名で鑑賞できるようにしているのは、主催者が経験した鑑賞に対する問題点の一つの解決策としての試みのようだ。事前に公開されていたステートメントには美術館やギャラリーでの鑑賞体験の難しさについて触れていた。あらかじめ客席が用意されている劇場や映画館とは違い、自分のペースで作品を観る行為は監視員など周囲の視線を気にし、集中するのが難しい。他者の視線を体で受け、自身でも体の扱いを意識しながら視線を作品に投げかける。美術館やギャラリーに作品を観に行った経験のある人は、その感覚を一度は感じたことがあるんじゃないだろうか。次の作品を観ようと頭を動かす瞬間。なんとなくギクシャクした足の運び方とか、体が妙に硬くなる、居心地の悪いあの感じ。

    一見、謎解きのヒントがばらまかれたような部屋だ。しかし段々と役者のいない舞台を場に観るようになる。観客の滞在時間の経過に合わせ、展示室内に手紙(日記)が投函される。投函されるたびに物語を想像し、自分がいるこの部屋が一体何かを考え出すと、自分の存在が観客としてあるということを忘れてしまいそうだ。観客としての私の体は透明になり、振る舞いは全て物語の中の人物のように見えてくる。
    そこが舞台上だと認識しはじめると、主観は物語に飲み込まれていった。

    劇場や映画館の座席で鑑賞する時、私はいつも目だけの存在になっているように感じる。照明が落とされることが多いのも関係するかもしれないが、自分の体に対する意識は消え、目で観る行為に私の全てが支配される。
    この部屋に入ると、これまでの目と展覧会(美術館やギャラリーで行われるような)の関係が、途中からぐにゃりと目と劇場/舞台の関係に変容した。ちょうどそのぐにゃりが抽出したところで45分間が終了する。ただしそのぐにゃりは優しいゆるやかな変化などではなく、私で在る体と私でない体がついたり消えたりと、まるで切れかけの電気のようにぱちぱちと切り替わる。そうして終了間際には私の体は目だけが取り残されていた。

    そうさせた一因は、会場に散りばめられた小道具の秀逸なしつらえから来るのだろうか。来場者としての私への指示か、この世界観に入り込んだ上での振る舞いかを察知させてくれる。例えば、一般的な舞台上の小道具として見せるために作られたプレゼントの包装を解いたとしても包装紙が空箱を包んでいるだけで、ハリボテの内側にはプレゼント本体は入っていない。舞台を見る観客の目は、違和感なくハリボテを本物として観ようとする。『17月3日』の室内は、ハリボテの装置と同一空間上に実際に観客が使用できるチェキ(インスタントカメラ)が用意されていたり、外を通る車両の光が窓に大きく映ったりと、現実世界と作り物が混在している。

    杉浦修治と鶴田理紗の映像作品は再生され続けているのではなく、時折思い出したように流れたかと思えば、次の再生までの沈黙が長い。作られた効果音なのか、隣家から漏れた音か、生活音がかすかに聞こえる。謎かけのような部屋と映像のシーンが所々リンクし、わたしは鑑賞者としての体をつけたり消したりする。会場の小道具たちが示すト書きを頼りに音や映像に対してどう反応するか、自分自身に問いながら。私の所在がたくさんのところに飛んでは消え、その振る舞いの是非も主観の置き所により変わる。

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    17年前、一緒に側転の練習をした。
    お祭りで披露する「ぽんぽこ太鼓」で、皆が和太鼓でリズムを作る中大きな旗を振って側転を披露する役回り。
    二人とも側転ができないくせに立候補して、たくさん練習した。
    あの頃の、観客の前でパフォーマンスを披露し、「見られる」経験がその後、俳優・鶴田理紗への道を作ったんじゃないかと思ってる。
    12歳の小学校の卒業から約17年。
    本展タイトルの『17月3日』の17という数字は私にとって彼女との再会を意味するかのように受け取りたくなってしまう。
    「こう思いたい」という欲望は日常生活の振る舞いをも演劇的に見せる。

    2022年02月20日木村 桃子

  • 物の怪

    物の怪(もののけ):人にとりついて悩まし、病気にしたり死にいたらせたりするとされる死霊、生霊、妖怪の類。 

     狐狸(こり)や妖怪の物語が消失して久しい。私は生まれてこの方、いわゆる「物の怪」と呼ばれる存在を目撃した経験がない。稀に幽霊が視えると主張し、自分の恐怖譚を語る者はいた。実感できない私がその者に同情することはなかったが、否定する気にもならなかった。なぜなら、語り部であるその者にこそ、怪しき何かが宿っているように思えたからである。

    彫刻:木、石、土、金属などで、物の像を彫り刻んで作ること。また、物の形などを掘り込むこと。また、その物。

     おそらく私が人生で初めて意識的に目にした立体造形は、自宅にある荒井良の張り子人形だ。幽霊や妖怪を表現した彼の張り子は、張り子には見えず、思わず人差し指でそっと触った。柔らかな衣服の部分は、予想に反してざらついていた。

    張り子人形のような立体造形に微かな憧れを抱いた私が、次に意識的に鑑賞したのは、佐藤忠良の彫刻であった。美術の先生に連れられて訪れた展覧会で、私は呆然としていた。

    張り子とブロンズ像。素材や表現は異なるが、根底に同じものを感じた。造形のルーツに関する話ではない。私の目には、どちらも「物の怪」に視えたのだ。ここで「物の怪」を解体する。「物」は幅広い。動植物も、建造物も、すべて「物」である。人は森羅万象に名前を与え「物」にしているのだ。

    「怪」は、理解し難い「怪しい」ことを指すが、これを全く同じ意味を持つ「恠」に書きかえるとやや変わる。りっしんべんに在と書くこの字が表すのは、怪しきは「人の心に在る」ということである。

    荒井良の張り子人形にも、佐藤忠良の彫刻にも、その形(物)に至るまでの、物語(出来事)が存在する。その物語を鑑賞者が知りうることはない。鑑賞者は物語を想像するのみだ。その想像を誘発させるのは、作者の「怪/恠」である。鑑賞者は、理解し難い、しかし魅惑的な、作者の「怪しさ」に惹かれるからこそ、その作品を鑑賞する。

    つまり、「物の怪」に憑かれているのだ。

     辞書では「物の怪」を、死霊や生霊、妖怪であると記している。これは、古代より残されている怪異史料の影響が強い。かつての人々は、「フシギなこと」が起こると、それが「物の怪」の仕業であると考えていた。台風や地震であっても、自然科学の知識がない時代においては、それが「物の怪」の仕業と認定されていた。奈良や平安の世を生きた人々は、神や怨霊は実在すると信じており、人の行いに対して天が人を諭す、天人相関説の思想を持っていた。そのため、古代においての「物の怪」は、辞書が記している通りの意味を持っていた。

    しかし、近代の科学文明の発達によって、それまで語られてきた「物の怪」は消失した。百鬼夜行も、人を化かす狐も、現代では現れない。しかし、妖怪研究で知られる小松和彦は著書に、現代においても妖怪たちは生き続け、新たに生まれていると記している。かつて人々は、闇夜のような不明瞭な空間や、得体の知れない物事に「物の怪」を想像していた。科学技術の進歩で、街は灯され闇夜が減り、物事が分類され明文化された現代において、人は自分の外側のものに「物の怪」を想像することが困難になった。そのため、現代の人は自分の内側に「物の怪」を想像するようになっている。

    アーティストは、自分の内側で想像されたものを冷静に見つめ、作品制作を行う。この行為は、自分の「物の怪」を外在化させていると言える。自分の内側で終わらせず、外側にある思い通りにはならない素材等を器用に操り、彼らは「物の怪」を具体化させているのだ。

     私は最近、怪異を扱った小説を出版した。ライトノベルと文芸の中間に位置する文庫レーベルのため、謎に対して明快な結論を下しつつ、白黒つけられない人間の複雑さを語ることを試みた。読者が求めるものになったかは定かでないが、現代の怪異を描くことはできたと思う。茂木健一郎は、脳は論理的に動いているわけではないので、現実と仮想は区別されるものではないと言う。この現実と仮想の間の部分を見つめることを、少しでも促そう。わからないことを拒絶しないで欲しい。そんな思いで執筆していた。

    この文庫レーベルからの出版に拘ったのは、大衆娯楽を作りたかったからだった。彫刻家を志して美大時代を終え、社会人として過ごす中で、自分に何ができるのか暫く自問自答していた。その末に、ハイカルチャーである彫刻と、サブカルチャーであるライト文芸の両方に着手し行き来することで、相互作用をもたらせたらと考えるようになった。

    私の「物の怪」に取り憑かれた人が、少しでも豊かな時間を過ごせることを願う。

    刊行小説

    『怪異学専攻助手の日常 蓮城京太郎の幽世カルテ』 杜宮花歩(メディアワークス文庫)  

    引用・参考文献

    『現代国語例解辞典』第四版 監修:林巨樹 松井栄一(小学館)

    『怪異学の可能性』 東アジア恠異学会(角川書店)

    『妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心』 小松和彦(講談社学術文庫)

    『脳内異界美術誌』荒俣宏(角川書店)

    2023年06月14日大江 花歩

  • WALLA Boardについて:追記

     公開されることを、「求めているテキスト」や「求められているテキスト」があるのではないだろうか。と考えたことが「WALLA Board」というテキスト公開ページを作るきっかけだった。発表、発信、報告、伝達、報道、説明、補足、開示、便り、とか。つぶやき?とか。あと、そう、「求め(られ)ていないテキスト」もあるかもしれない。自分にヒントを与える文字や言葉、記録。誰かが誰かに宛てているものであったり、独り言や音のような、言葉の流れであったり。これもひとまとめにできないが、ある。  「テキスト」という文字を文字通り「文字」に私もできてないかもしれないが、そういう感じで個人と公を漂っている、表現としての(表現のための)テキストに「場所らしい何か」の支持体をひきたいと考えた。

     本来、場所に依存しないであろう文字や言葉というものに「場所らしい何か」を感じることは、私たちを安心させるのではないか。安心の依代は人それぞれではあるけれど、表現としてのテキストは安心に似た筆者の切実さやリアリティの文責を持つと思っている。それに加担するかのように新しくテキスト達の為の場所らしいものを築くことが「WALLA Board」である。小平にあるWALLAも実際の「場所」であるし、ネット上に仮にも場所を作るとなると、何か物体としてその度々起立したかの様に字面を見せてくれる「Board(板、ボード)」というと名を与える事になった。

     最後に、本ウェブサイトの作成にあたり快く引き受けて頂いた大橋鉄郎さん、「WALLA」に引き続きロゴをデザインして下さったデザイナーの浦川彰太さん、公開にあたり先んじてテキストを執筆下さった(ている)方々、いつも心強く背中を押してくれるWALLAのスタジオメンバーの皆、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

    「WALLA Board」は筆者とテキストにとって快適な場として運営して参ります。更新は不定期ではありますが、時折訪問して下さると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

    2021年02月26日大石 一貴